中段に構えた時、両腕の脇下は軽く付ける

 脇と体との間に「鶏卵を挟んでいる」心持ち

 強く締め付ければ、鶏卵は割れる

 緩め過ぎれば、鶏卵は落ちる

 割らず落とさない程度に軽く付ける。

 

 その他の腕のどの部分も、体に付けない

 

 「左手の握り」は、臍(へそ)から約3cm〕程度下で、腹から約一握り離す

 絶対に体に付いてはならない

 体に付く時は剣先の威力を失い、竹刀の運用が不自由になる

 

 「左手」は臍(へそ)の真下でなく僅(わず)かに左に置き、親指の第一関節が身体の中心に来る

 右手」が前に出て「右足」が前になっているところから多少「右半身」になっているので、「柄の中央辺りが身体の中心となる」のが自然の位置である

 

 「剣先」は、相手の咽喉(のど)に付ける

 

 「右手の握り」は、わずかに鍔(つば)に引っつかない程度に離す

 

 「左手の握り」は「柄頭(つかがしら)」一杯に握る

 小指の半分を「柄頭」にかけるという説もある。

 刀を持った時には柄の「巻留(まきど)め」を余らして持つ。

 

 竹刀を「上方から握る気持ち」で「小指と薬指の2本」で握り、他の3本の指は柄に回しているだけ

 中指は軟(やわ)らかく付けてもよろしい

 そして「濡れ手拭(てぬぐい)を絞るような心持ち」で握る

 この時、絞ってはならない

 絞っては手が硬くなって、隙を生じ、運用を妨げる

 

 竹刀の「弦(つる)の延長(刀・木刀の峰の延長)」が、「親指と人差指との中間に来る」ようにし、手が体に触れないように両肘を軽く張る

 それで手首は折れて「くの字形」になる

 手首が折れないで手と腕とが真っ直ぐになる」のは、握り方が悪く、また肘が伸びている為で、手の全体が硬くなって、打突に支障をきたす

 

 (上写真:高野佐三郎範士、中・下写真:持田盛二範士)  高野佐三郎氏   持田盛二範士 mochida.jpg 刀の握り方は「手の内」とも言って、古来剣道には重要な心得とされている。

 

 刀の握り方が悪ければ、どんな大力をもって切りつけても切れない

 

 刀を柔らかく持って振りかぶり、切り下ろす瞬間に「旺盛なる気合」と共に両手の小指と薬指で絞り切りつけることによって、物を切ることが出来る

 

 試し切りというものがあって、藁(わら)一束の中に青竹を入れて縄でくくり、水に浸したもの(人間の胴と同じ)を切るのだが、手の内の不確かな者は藁一本くらい切れるか切れないで刀がはね返ってしまう

 上手な人(手の内の絞りのある人)はこれを3つも重ねて断ち切る

 

 それ程、「手の内」とは「物を切る」には大切である。

  tameshigiri.jpg

 竹刀を持った時には「食膳の箸を持った心地」で特別意識しない

 しかも打つ時には、適度な力を込め、気合もろとも手の握りを締めて打つ

 これをもって「有効の打突」となる。

 

 この打突また相手の竹刀を受け止める用の済んだときには、直ちに元の軟らかな握りにならねばならない

 用が済んでなお締めていれば、残心はならなく、またこちらから再び打ち込むことは出来ない

 

 「相手が打ち込んで来た竹刀を受け止め、それから直ちに応じ返し打つ」が、応じてそのまま打つか、いずれにしても、一旦は手の内を絞って締めなければ受け止められない。

 

 受け止めたら、直ちに締めつけた指を緩めて、次の動作に移る

 

 余(よ)が28歳で武徳会の助教授をしていた頃、東海道各地を武者修行をして回り、東京に来て8~9個所の道場を稽古して回った。

 

 ある所に行って、40人余りの人と稽古をした後、折り柄来合わせて居られた中山博道(剣道範士・居合術範士・杖術範士)先生に、「君は相手と立ち会った時に、初めから両手で竹刀を絞って使うが、ここで稽古をした者は皆君より下手の者ばかりだから間に合うが、上手の者または同等の者に対してはそれでは損をする竹刀の握りは、初め立ち合った時は軟らかにして、打突する時に絞って打つ方が良い。」と忠告を受けたことがある。

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 その時は、口では「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べたが、内心では「自分は毎日武徳会で稽古をし、武者修行に出ては40~50人を相手にして何とも無いのに」と、先生の忠言を馬耳東風と聞き流していた。

 

 郷里の夏の講習会(3時間)で、1時間半元に立って一般の講習生の稽古を受け、続けざまに1時間半を元太刀に立っていた先生から、次から次へと全部稽古を受けた。

 その時は猛夏ということもあり、後の数人を受ける時には気息奄々(えんえん)心身ともに疲労困憊して耐え切れなくなった。

 それでも各人との稽古に自分から早く止めることを恥として、意地で立ち続けたが、とうとう相手を攻める気力、相手の打突に備える体力を喪失してしまった。

 「どうでも勝手にせよ」と堅固な構えをつくっていた「竹刀の絞り」を無くし、緩く持ったままにして相対して立っていると、案外相手の打ち込む太刀は当たらず、余の打ち出す太刀は当たる

 労苦は半減する

 剣道はこれで良く、何も気張って対する必要はない」と思い、それからはこのような心持ちで相手に対することにした。

 

 夏休後、武徳会に帰って稽古をしたが、このようにして構えて行なったら、人々は「稽古が変わった」と言う。

 小川金之助(範士十段)先生からも「稽古を変えたなあ」と言われたので、「変えたつもりは無いですが、どういう風に変わったのですか。悪くなったか、良くなったか、どちらですか」と尋ねたら、「稽古に位(くらい)が出来た」と称された。

 

 この時、先に中山先生に注意された時は、若さの己惚れが強くて分からなかったが、中山先生の忠言の如何(いか)にありがたいものかを、つくづく肝に銘じて感じた。

 

 両手の握りは飽(あ)くまで軟らかくして、肩を下げ、剣先で相手を威圧する気位(きぐらい)で相対するのが、打突の際は両手が一致することによって功を奏する

 

 ただし「左手が主となって右手が従となる」のは、足の踏み方で「左足が主となって右足が従となる」のと同じである

 右手が主となっては打突が正確にならない

 特に突きの場合は、的が外れ強く当たらない

 

 構えた時に剣先を僅かに上下に動かすことは、昔から「龍尾(りゅうび)」と言ってよく用いられている

 これは自分の構えが居付かないように、また硬くならないようにするのが、「打突の機会」を相手から察せられない為にも有効である

 

 だが、これは「各人の好み」によるもので、「必ず上下に動かさねばならない」と言うものではない。

 特に、激しく剣先・竹刀を動かすのは、「相手の心を迷わす」よりも「己の心が乱れやすい」ので良い仕方ではない

 

 手の内」を締め、緩めるは、その時の場合によって瞬間的に行なうので、その緩急応酬の強弱の度合いは、修練を重ねて自得すべきである